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高崎山メモリアルコンテスト応募一覧

投稿日:2023年3月3日

作品タイトル 家族旅行

 
  タイトル 家族旅行
 ○ 思い出の年月日  2018年5月12日

 【エピソード】
 定年退職で頂いた旅行クーポンで主人と私、長男ファミリー4人・次男ファミリー3人計9人で高崎山へ行きました。
 孫達は大喜び!みんなが、お猿さんに癒されて、ニコニコしていました。
 あれから5年、孫も二人増えました。コロナが落ち着いたら、又行けるかなぁと、期待しています。

 


  タイトル 私に ついておいで 
 ○ 思い出の年月日  1963年3月

 【エピソード】
 高崎山自然動物園開園70周年おめでとうございます。
 開園から5年後に生まれた私は、幼いころ、お猿さんが怖くて泣いた思い出があります。写真のように「私に、ついておいで」という気持ちで育てた子供たちも、昨年ついに次男が結婚して、35年の子育てがようやく一段落しました。孫の写真を撮るために買ったカメラを持って、久しぶりに訪ねた高崎山には、色んな人間家族の縮図があり、思わずシャッターを切った家族写真が、百枚を超えてしまいました。ここには、写真の素材が(やまだけに)山ほどあります。
 年間パスポート取得を機に、これからは、お猿さんにもっと接近して、楽しい写真を撮って行けたらいいなと思っています。




 

 
  タイトル あの日の出会い
 ○ 思い出の年月日  2013年10月


 【エピソード】
 高崎山自然公園でのエピソードじゃなくてすみません。
 「10年前のあの日、ベンツと出会ったあの衝撃!あの時の出会いを今、形にしておかなくては」その思いだけで絵を描きました。
 あの日私は大分西校の角の交差点で左折しようとハンドルを切りました。と、目の前の横断歩道に、腰を下ろした大きな猿が!突然のことに頭の中は真っ白。その大きさ、落ち着いた風貌、ともかく圧倒的な存在感でした。大猿の目がじっとこちらを見て、10秒足らず見つめ合い、その後猿はゆっくりと路肩に歩き去っていきました。ニュースでもベンツの失踪は伝えられていたので、すぐに彼だとわかりました。
 高崎山からの道のり、彼は一体何を思い、車や人間が行き交う市街地で、彼は何を感じていたのでしょうか。あの交差点を通るたびにあの日のベンツのことを思い出します。

 タイトル 飲物持ち込み禁止 
 ○ 思い出の年月日  1981年

 【エピソード】
 写真は、40数年前の高崎山サル寄せ場での夫と私の2ショットです。
 この日、市外に住む兄夫婦が当時5歳の甥を連れて遊びに来ていたので、その甥に猿が群れ走り回る光景を見せたくて連れて行きました。
 入口には「飲食物持ち込み禁止、猿から狙われる」そういった看板があった気がしますがそれには気をとめず、甥は缶ジュースを手にサル寄せ場へ向かう階段の方へと進みました。すかさず1匹の猿が、この缶ジュースを狙って甥に飛びつき、それを奪って山の方に逃げて行ったのです。その間わずか数秒。甥はもちろん周囲の皆もびっくり!!甥は凍りつき泣くのを忘れ、私たちもあっけに取られ声も出せなかったのを覚えています。
 写真はそのハプニングの後に撮ってもらったものです。私たちにとって数少ない新婚当時の写真でもあります。 コンテストに応募するにあたり、缶ジュース事件と共にその当時が懐かしく思い出されました。


 ❀❀❀ ベンツ賞 ❀❀❀
  タイトル 無題
 ○ 思い出の年月日  不明

 【エピソード】
私の幼い頃の思い出の写真です。私は今月(令和五年一月)で六十七歳になりましたので高崎山自然動物園が開園して間もない頃と思います。一、二歳の私を今は亡き両親が連れて行ってくれたのでしょう?何とも笑える一枚の写真がアルバムの中にありました。お猿さんとみかんの取り合いの様子。両親は私を助けに行かず、このシャッターチャンスを逃しては?というところだったのか?結果はどちらの勝利だったのでしょう?聞いておけば良かったなぁ~?と天国の両親に「どうやった。」と問いかけております。(笑)それから四、五年後、私は五歳になり東京から帰県した叔父といっしょに再び高崎山へ。叔父は来月、八十九歳になりますがまだまだ元気です。最近少し歩行が困難になってきたので、今度は私が叔父の手を引き、開園七十周年の記念の今年、暖くなったら是非、私を撮ってくれた場所へ足を運びたいと思っています。


 タイトル 瞑想猿と伯楽 
 ○ 思い出の年月日  2022年11月

 【エピソード】
 その猿の写真を初めて撮ったのは、2017年の冬の頃です。猿寄場周辺の鐘つき堂やトイレの前で“体育座り”で瞑想するC群の風変りな猿でした。
 この頃、群れの上位の猿の去就が続き、雄猿の順位も変化し、猿寄場の柵の上で“体育座り”を見るようになりました。2020年の頃です。
 あと少しでボスになる…そんな矢先、C群からB群へと、この猿は移りました。恋に生きる…誠に男らしい猿でしたが、程なくして姿は見えなくなりました。
 1年余り過ぎたころ、群れの端で、再び姿を見るようになりました。その瞑想猿が、最近では“みんなと一緒にハイ・ポーズ”の名物猿へと、驚きの変身を遂げました。猿の個性を見抜き、活躍の場を与える伯楽が、高崎山にいると知りました。係員さん達は、その猿を、顔の形に由来した名で“マルオ”と呼びますが、私は親愛の情を込め“マルちゃん”と呼んでいます。マルちゃんが笑顔で写る日を楽しみにしています。

  タイトル 救いと命を説く母猿
 ○ 思い出の年月日  
  2018年11月、2021年12月


 【エピソード】
 私がその子に気づいたのは、2018年11月でした。両足が麻痺したのか、両腕で上肢を支え、移動する姿でした。自然公園の高崎山では、身の不自由な猿は集団についてゆけず、短命に終わると聞き、行く末を案じました。
 不自由な体ながら子猿は仲間に近づき、無邪気に遊びます。母猿は、傍らで見守り、本人の意思に任せています。助けして欲しい、そう思いました。月日が過ぎると、少しずつ足が動くようになり、そのうち不自由の痕跡がなくなりました。ミラクルという名が付いたと知りました。
 それから3年後の去年、我が子と迷子を育てるマツバが話題になりました。双子の育児が難しいと聞く猿社会です。マツバは本当に勇気ある猿と、心の中で称賛しました。
 数日後、マツバはミラクルの母と知りました。驚きました。傍らで命を守り、体を賭しては二つの命を育むマツバは、高崎山におはす御仏と共に、救いと命を説いているように思いました。

 

 タイトル 尊重と敬意 ⇒
 ○ 思い出の年月日  2018年4月

 【エピソード】
 
高崎山で有名な猿の一頭が、サヤカです。生まれつき両手が不自由で、二本の足で野山を駆ける猿です。サヤカの子育は、テレビや本で紹介されました。子猿を産むたびに取材があり、それから子猿を守ろうと、威嚇の術を身につけたようです。
 見学のお客さんはもとより、給餌の案内係や、そそうを片付けてくれるお掃除の人々にも、口を開け、威嚇します。私も5年程、声をかけ、親愛の情を示しますが、ままなりませんでした。
 そんな中、あるお客さんだけには、サヤカは優しい眼差しになると知りました。しかも、そのお客さんが帰ろうとすると、崖の上から姿が見えなくなるまで、お見送りをする様子も見つけました。同じ光景は、繰り返しました。
 不思議に思い、案内係のお一人に尋ねました。長く通う常連さんでした。二人の様子を遠くから眺めました。近からず遠からずの間合でした。それぞれを尊重し、それぞれに敬意をはらう様子がありました。

  タイトル 思い出のモンチッチ
 ○ 思い出の年月日  1992年11月


 【エピソード】
   高崎山には何回か遊びに行ってますが1番の思い出は30年前に初めて行った時のことです。
 たくさんのお猿さんがいて、ビックリしたり、怖かったり、エサやりが面白かったなぁ。
 特にお猿さんの赤ちゃんが可愛くて、帰りにおみやげ屋さんでモンチッチの哺乳瓶つきを買ってもらいました!そのモンチッチは私の宝物になって、かたむけるとミルクがなくなる哺乳瓶をモンチッチにずっとあげていました。そのモンチッチは10年以上大切に遊んですごく楽しかったです。
 今の私にいは1歳の娘がいます。
 もし初めて高崎山に行ったらモンチッチを買ってあげるのが夢です。たくさんの思い出をありがとう高崎山!開園70周年おめでとうございます!
 また家族で遊びに行きたいです。

  タイトル サルは女性が好き 
 ○ 思い出の年月日  不明

 【エピソード】
 ある雪の降る2月外人の美女と正反対に一匹のサル(写真)が珍しそうに大きく口を開け女性を見ていた。私は、思わずカメラを向けシャッターを切り、反対側の女性を同時に撮影した。下段の写真も美脚の下をくぐるサル、人間ならセクハラですぐ社会問題を引き起す。サルは女性が好きでした。

   タイトル 高崎山の思い出
 ○ 思い出の年月日  不明


  【エピソード】
 私の孫娘の思い出です。
 息子の仕事の関係で、生まれて三才まで大分の私達の所で過ごしました。少しだけ障害のある子で、私達は、かわいい、かわいいで世話をしました。なかなか人との関係がうまく取れなくて、私達夫婦は、暇を見つけては、高崎山と、うみたまごへ連れて行きました。
 ある時、高崎山でクイズ大会がありました。それは、おさるさんが集まって毛づくろいをしてるけど、あれはのみを取ってるんだよ。という問題でした。多くの皆んなは〇×の〇の方に行ったのですが、孫娘は、「おさるさんそんな事しないもーん。」と言って×の方に行きました。結局それが正解で、係の方が「あー、もう優勝者が一人出てしまいました。本当はあと五問クイズがあったのですが、ごめんなさい。」と言われました。私は「すみませんね」とあやまった事を思い出します。今でも福岡から大分に来る時、別府のインターで降りて高崎山の横を通って来るのがきまりとなっています。

  タイトル 高崎山の思い出 
 ○ 思い出の年月日  推定1953年

  【エピソード】
 
私は昭和十九年生まれ七十八才の女性です。
 小学校三年生の時のことです。
 お寺でラジオ体操するためにお兄さんたちと走って行きました。
 ご住職さんが法螺貝を吹くと木がゆれておさるさんが山から下りて来ます。私達は持って行ったお芋をあげると、おさるさんは美味しそうに食べていました。
 私達は体操が終わったら家に帰りました。
 あの頃はそれがとても楽しい朝の時間でした。

 

 ⇐ タイトル  無題
 ○ 思い出の年月日  2018年2月22日


  【エピソード】
 自分は60歳になりますが、小学生の頃から両親に連れて行ってもらっていました。別府と言えば、高崎山かラクテンチでした。
 楽しい思い出しかありません。
 A群B群C群の群れがあり、縄張り争い等があっていました。
自分が大人になって子供を連れて行く時代になり、両親も歳を取り足が悪くなり登って行けなくなったから行けないかなぁって思っていたら、車椅子の貸出しもあり、頂上まで行けるもあり連れて行く事が出来ました。高崎山は親子何世代でも行く事が出来る自然動物園なのでこれからも楽しませてください。
 70周年おめでとうございます。
 私の一枚の写真を送らせていただきます。
 後尾をしている写真ですが、人間も動物も子孫繁栄には欠かせない行動だと思っています。

❀❀❀ コーテツ賞 ❀❀❀ 
タイトル 私を強くしてくれる存在、サヤカ
 ○ 思い出の年月日  2007年夏


  【エピソード】
 この写真は、私の心を強くしてくれる。写っているのは、高崎山のメスのサル「サヤカ」。サヤカと私の出会いは今から15年前、私が中学生のときだ。職業体験で訪れた高崎山で、イモの時間にサヤカは私の隣にひょっこり現れた。最初にサヤカを見た時、とても驚いたことを覚えている。なぜならば、サヤカは生まれつき両手が不自由で、群れで唯一、二足歩行をしていたからだ。しかし私の驚きと心配をよそに、サヤカは大きなイモにかぶりつき、さっさと山の方へ走り去っていった。私はそれ以来、同い年のサヤカのことが気になり、何度も足を運んでは、サヤカに起こる様々な出来事を何年も見守ってきた。そうして大人になって、私は大分を出た。都会でうまくいかない日々、ふとサヤカの写真を見ると、今も一緒に人生を戦ってくれているよう。逆境での強さ、生きるたくましさ、故郷の思い出…、幾度となく励まされて、今まで頑張ってこれた。
 サヤカ、ありがとう。


 タイトル 昭和42年のお猿さん
 ○ 思い出の年月日  1967年4月


  【エピソード】
  小学校6年生の修学旅行で高崎山に来て、その時に撮ったお猿さん。55年たちました。
 福岡の海辺の町の小学生の修学旅行は2泊3日。
 福岡→熊本→阿蘇(栃木温泉泊)→やまなみハイウエー→別府(にしき園泊)・地獄巡り→高崎山、マリンパレス→耶馬渓→中津→福岡  3日目に高崎山で猿を見た!

 その10年後、えん(猿?)あったのか、大分市に転勤。
 家も家族もでき、早45年が過ぎた!

 JRが高崎山・さる駅を作ってくれたら年間パスポート買ってお猿さんに会いに行くけどね!

 


❀❀❀ ジュピター賞 ❀❀❀ 
 タイトル 私の高崎
 ○ 思い出の年月日  
    1960年4月、1965年11月


  【エピソード】
  私は今年で結婚をして61年になります。
 結婚までの約一年、現在で言う初デートでしょうか、彼(現在の主人)が連れて行ってくれたのが高崎山のおさるさん見物でした、それも今のように各家庭に自家用車があるわけではなかったので、現在は無くなっていますが、浜脇の別大電車の乗り場に行き、電車に乗って高崎山に行きました。
今では考えられない、入口の看板に「おさるのえさあります」と書いてあり、売店で売っていました。この写真は約62年前彼と少し距離を置いて、ベンチで休んで居る時、二人の間にお猿さんが来てちょこんとすわり、子供の様に手を出して、エサをおねだりするようなしぐさに、一瞬身を引きましたが、あまりのおとなしさに、エサを買ってくれば良かったと思った瞬間でした。結婚して、子供たちもうまれお猿さんを見に、良くつれて行きました。それから孫たち生まれるとよちよち歩きするのが待ちきれなくて、何度も連れてお猿見物に行きました。


 

 タイトル セピア色の高崎山
 ○ 思い出の年月日  1966年1月


  【エピソード】
 昭和40年、当時高校3年生だった私は翌年4月の就職を控えクラブ活動の仲間4人で冬休みに九州一周旅行を行った。
室蘭本線東室蘭駅を出発、翌々日の12月29日に長崎駅に降り立ち、九州を8の字に廻るように熊本、宮崎、鹿児島、また熊本に戻り豊肥線で大分入り。すでに昭和41年になっていた。今から57年前になる。
 別府駅前から亀の井バスの観光バスで地獄めぐり、ラクテンチ、そしてマリーンパレスと高崎山を見物した。マリーンパレスの回遊水槽や石鯛の輪くぐりなどを見て高崎山に足を延ばした。国道10号線に掛かる小さな横断歩道橋を渡り日豊線をくぐって進むと猿が出迎えてくれた。バスの乗客全員で記念写真を撮るとき、係の人が餌を投げて猿を呼び寄せていた。それがセピア色の思い出写真である。当時は白黒写真が普通だった。
 昭和46年に大分市に転勤となり、子供達を連れての猿見物も思い出となっている。


 タイトル 気になる体重検査 
 ○ 思い出の年月日  2010年2月

  【エピソード】
  定期的に体重検査しておられる現場を偶然撮影しました。
 担当の方は、上手く猿を量りの上に誘導して、体重測定されている。
 ところで、猿はメタボ気にしているのかなあ【笑】


  タイトル ジャンプ!
 ○ 思い出の年月日  2012年1月


  【エピソード】
 猿の餌の時刻の前後には、餌を求めて移動があり、この猿も餌を食した後に、元の場所に戻るために、ジャンプして、御堂の屋根の上に飛び降りた。 ストロボを使い撮影した。


 タイトル 紅葉にジャンプ!  
 ○ 思い出の年月日  2012年12月

 【エピソード】
 秋の紅葉時期に撮影。餌の時間になると、猿たちのえさ場への移動が始まる。大木の上からジャンプする猿を撮影した。


  タイトル お猿さんのおもてなし
 ○ 思い出の年月日  1972年12月


  【エピソード】
  柑橘研究の第一人者である岩崎藤助先生は、昭和44年、定年で農水省を退官されました。私は静岡県清水市にある農水省園芸試験場で岩崎先生から学びました。今日の自分があるのは、先生の現地指導の賜物であると感謝しています。
 これに少しでも報いるため、昭和47年12月にご夫婦を高崎山と別府の温泉にご招待しました。お猿さんたちがご夫婦を歓迎してくれたときの写真です。
 後日、手紙で「お猿さんのおもてなしに感動した。もう一度訪れたいと思います」との礼状をいただきました。今も大切に保存しています。
 お猿さんありがとう!

タイトル 高崎山に通い、私が学んだこと
 ○ 思い出の年月日  不明

  【エピソード】
  30年前、50歳を過ぎて帰郷し 生活の地が別府でした。失業保険を受けながら、時間を見て高崎山に通いはじめ、当時A群B群C群と大変にぎやかな園でした。ガイドの責任者に許可を得て、30個ほど青い色をつけた大小の石を広場にばらまき、猿たちの行動を見るのが楽しくて、ずいぶん通いました。私は一箇所に座ってみているだけですが、食べられないと知り転がして遊んでくれました。彼等なりに石や木の葉や木切れで遊んでいましたが、色の付いた石に興味を示したことが喜びでした。ある日、ゴミ箱が設置されました。猿がやって来て見ていたので、ふたを押すと興味をもったのか自分でやり、中に落ちてしまった。開けると出てきて、もうやらないかと思ったらまたやりだして、飽きずに楽しそうに押して遊ぶ姿が可愛い。特にボスの合図で時間に各群れの交代の動きや単数・複数の行動・親子関係・仲間意識等々限のない猿達の姿に、私たち人が、集団行動力学や感情・感動を学ぶことが多くあると実感しました。現在82歳ですが、人生の後半の生きる糧をいただき、今努力しています。ありがとうございます。


 ❀❀❀ ピース賞 ❀❀❀
 タイトル いつか高崎山で
 ○ 思い出の年月日  2020年3月


  【エピソード】
  中学生の時に、学校の美術の授業で自分の将来の姿を紙粘土で作りました。
 私の将来の夢は小学校3年生の時から高崎山自然動物園のスタッフになることなので憧れの姿を題材としました。自分の将来なりたい職業を形で残せることがとても嬉しいです。感染症の影響により作成の途中で授業が中止となってしまいましたが、自宅にてリアカーとサル、イモ、そして高崎山名物の切り株を追加で作成し完成させました。
 私の夢が詰まった作品です。

 

 
 
タイトル 野生が1番 
 ○ 思い出の年月日  2015年8月

  【エピソード】
 小学校4年生の時に自由研究の宿題で取り組んだ作品です。
 野生の猿と動物園の猿の違いを調査し、まとめたものです。
 この研究を通してより一層高崎山の猿が好きになりました。
 高崎山の猿は個体数も多く、近くで見ることができ、なにより活発に動くので観察していて飽きることがなかったです。

 


 ❀❀❀ ドラゴン賞 ❀❀❀
 タイトル 私も高崎山のサルファン
 ○ 思い出の年月日 2015年からずっと


  【エピソード】
  大分に住んだのは1年足らずでしたが、思い出がギュッと詰まっています。はじめに訪れた時は、ここまで日本ザルにはまることになるとは思ってもみませんでした。
 当時、小3の子供が、今までに見たどの動物よりも興味を持ち、何故か毎週高崎山に通うことに。
 そのため、大分に住んでいる間は、大分の有名なところにはほとんど行ったことがありません。
 その後(引っ越し後)は他の日本ザルにも会いに行きましたが、子供の目には顔つき、性格が違って見えるらしく、どうしても「高崎山のサル」でなくてはダメなんだそうです。その後学校での課題、提出物作文のほとんどがサルがらみ。サルまっしぐら。
 そんな子供のために作ったスタッフさんの服に似せたTシャツです。
 でも作って着せて行った時にデザインが新しくなってたんですけどね(笑)
 全てがいい思い出です。

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